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ブログ閉鎖
おー読んでてくれた人、すまねー。
ブログを変えることにした。

ちょっと文字がでかくならんことにイライラしたり
最近急激に増える来客者数に「誰がいったい読んでるのか」と
書き方がわからんくなり
昔のブログには変な書き込みなんかがされるようになったので


まあもともとごく内輪に読ますためのもんだったので
もっと書きやすいとこに引っ越すことにした。

読みたい人は個人的に連絡とってくれい。ではでは、アデュー。
# by nngapokoatsuo | 2006-03-10 17:32

人材勉強会
最近、内定者を集めて「人材勉強会」なるものを主催してみた。
けっこう好評を博している。

この「好評」、実は80人もいる内定者のなかでのたかが10名たらずの反応によって成り立っている。
「いいアイデアだね!」「行きたいけど行けない!」って反応ひとつひとつが
モチベーションに変わってくる。
反応があることそれ自体で、企画の意義が達成されていく気がする。
不穏分子は完全に「見えないもの」になっている。

自分が「この指とまれ!」といったことに対して
実際に何人もの人間が動く。
これって考えてみるとすごいことじゃない?

これが何百人も集めたサークルだったり
それこそオリンピックで自分の一挙手一投足に人々が騒いでたりすると
そらー支配的な気持ちというか、自分のなかに「偉大なるもの」を見つめてしまう。

だからメディアにでた人間が突然大人びたりするのだろう。
何万人を沸かせた体験なんかしてしまったら、もう普通には生きられない気がする。
成功体験の獲得が、自分の目標をさらに高い位置に定める。
じゃあ次はなにをしてやろう、というときにもっとハードルを上げることになる。

いままでもサークルや部活でこういう機会をもとうと思えばもてたのかもしれないけど
僕の場合はそういう体験が皆無に等しかった。
主将で部をまとめるような感じでもなかったし。

でもこういう「成功体験」って
自分だけでつくれているものではなくて…
「この指とまれ!」を言い出す人の交友関係やそのタイミングなんかでは台無しになる。
それこそ最初に2・3人、「やりたい!」って賛同する人が
企画者に対してではなく
参加を決めかねている人々にアピールする形で発言していかないと
その円は広がっていかない。

だから「根回し」が必要なんだなーと。
絶対に参加してくれる数人を集めて、初めて企画を持ち出せる。

こういうコツを心得ている人が内定者には結構多い。
自分でも企画するし、人の企画にもどんどん「発言」する。
全員で「盛り上がり」をつくっていくコンパ的な感じだ。

けっこー新鮮。
僕の周囲にはどっちかというと考え深くて慎重なタイプが多かったから。
色々学ばせてもらっているし、自信をもらっているな、という気がします。




# by nngapokoatsuo | 2006-02-24 00:32

気分と人生曲線
最近、旅の計画がなくなったり住居探しがうまくいかなくなったりで
気分的にdown気味なんだが…


ダウンって気分って一体なんなんだろう?ってのが今回のテーマ。


寮生が今日の早祷で
「就職活動で書かされる『人生曲線』」をテーマに話をしていた。

あなたの人生で好調不調を曲線グラフにしてくださいってやつ。

それで思ったわけ。

あれ、なんだか「人生曲線」ってみんなすごく似てない?

<好調要因>
大学合格
人生の目標を見つける
出会い


<不調要因>
浪人
人生の目標を失う
失恋


何人かの人生曲線をみてきたけど、ほとんどすべての人が
不調の原因に失恋や挫折を挙げ、好調の原因にはそれと逆のものを挙げる。


でも実際にそれを体験しているその時点において「不調」と感じているわけではない。

失恋したときも凹むし、たしかに毎日つまらなかったりするんだが
一日を切断切断してみたときに「楽しい」と思える瞬間はいくらでもある。
けっこー笑ったり色々考えたりしている。
でも「人生曲線」にそれは現れてこない。

この「人生曲線」でほとんどすべての人に共通するんじゃないかという点がある。

現在を真ん中かそれより上に位置づけている

まあ就職活動だし、いま悪い時期!としている人はいないと思うが
それよりも
「いまは悪い時期だ」と思って生きている人って実はそんなにいないんじゃないかな?

というか現在の評価って現在の自分には出来ない。

だからだれもが「現在」をぼちぼちいい時期ってことにして
それを基準にして過去を「並び替えている」

なんだか歴史哲学みたいになってきたけど
「人生曲線」ってのはあくまで「現在の自分」からみたものに過ぎない。
たぶん10年後にやると現在不調の原因としているものはほとんど平均化されてしまうと思う。

10代は人間関係にデリケートな時期だから「人生曲線」の転機はほぼ「人間関係」に終始する
20代は大学・仕事といった経験が増え、「旅」「転職」といったものを転機にする
30代は「結婚」「家庭」なんかが入ってくるんじゃないかな。

果たして40代に「人生曲線」を描かせて「失恋」を転機に挙げる人間がどれほどいるだろうか。


そう考えると「人生曲線」ってのは
現在その人が何を重要視して生きているかを見るためのツールになる。
「過去になにがあった」ではなく「過去からなにがよかった・まずかったかを『選択』しているか」
ということである。

いま、確かに僕は不調だけど
1日1日をとってみるとそれほどつまらなくはない。
なんとなく目標を失ってる感はあるけど。
# by nngapokoatsuo | 2006-02-21 09:45

『ミュンヘン』
映画『ミュンヘン』を見てきた。
以下、解説。

(本作品は、スティーヴン・スピルバーグ監督久々の本格社会派ドラマということで、大きな注目を浴びている。また、ユダヤ系である彼が、イスラエルに対するテロ事件を題材に描いた作品ということで、各所に大きな波紋を呼んでいる。イスラエル側、パレスチナ側、鑑賞者がどちらの立場に立つかによって、賛否両論に分かれる内容であるためだ。『ミュンヘン』で題材となるテロ事件「ミュンヘン五輪虐殺事件」とは、72年のオリンピック選手村にパレスチナのテロリスト数名が侵入、コーチと選手の2名を殺し、残りのイスラエル選手団9名を誘拐した事件のこと。『黒い九月』(ブラックセプテンバー)と名乗る犯人グループは、イスラエルに投獄されている仲間234名の釈放を求めて立てこもったが、ドイツ当局の対応のミスにより、のちに人質全員が殺害された。ちなみに映画は、事件そのものではなく、その後イスラエルが報復として密かに実行した暗殺プロジェクトの様子と、そのリーダーの苦悩を描いた人間ドラマだ。この主人公を、『トロイ』でブラッド・ピット演じるアキレスと、激しい戦いを繰り広げて注目を浴びた、エリック・バナが演じる。 )

まあ、予想したほどではなかったがノンフィクション映画としてはなかなかの出来。
これは
「暗殺者の人間性」
を描いた映画である。

「スキのある時間」がない人間など存在しない。
暗殺している側にまわった主人公は、そうした「盲点」をついて次々に暗殺していく。
しかしそれに気づいてしまうと
今度は「自分の影」に追われるようになる。

誰かが自分をねらっているのではないかと考え始めると
おそよ自分が使ったありとあらゆる選択肢で身の危険を捉え始めるのである。

常に爆弾や襲撃の影におびえ、夜は眠ることもできない。

多くの映画に登場するベトナム帰還兵の症状と同じものである。


この映画のメッセージははっきりしている。
アラブ側にせよ、イスラエル側にせよ(イスラム教徒にせよ・ユダヤ教徒にせよ)、同じ人間である

家族にのみ信頼をおき、人を次々に殺しながら自分の家族を守り抜こうとする暗殺者
オリンピックの人質事件テロリストと主人公を重ね合わせる描写
お互いの偏狭にまみれた主観的発言

この映画をみていてもともと考えていたことがより強固にかたまった。

自分の家族・友人を守ろうと強く思っているからこそ他人を殺す

戦争は人間が人間的であるがゆえに起こるものだと思う。
家族を殺されてへ~きな顔をしていられるならば、世界は平和になるだろう。
細木カズコが「なぜ世界はこんなに平和じゃないの!?」と泣いたらしいが
彼女が求めている「人々が道徳的であること」がそれに輪をかけるのだと思う。

華氏911でも家族・親族を殺された女性が天を仰いで祈念する。
「アッラー!アッラー!どうか奴等に復讐を!」
『ミュンヘン』をみるとその気持ちはすごく理解できる。
僕でも自分の身のまわりに危険が及べば、テロリストにだってなるだろう。

何が間違っているのか?
それは「誰が殺したか」ということのイデオロギー的曲解である。

自分の家が突然爆発される。
いったいなんだ!?混乱する。
新聞をみる。「『アメリカ』が空爆開始!」「『キリスト教』対『イスラム教』」
そう、自分を貶めたのは
『アメリカ』であり、『キリスト教』なのだ、と「理解」する。
そして
『アメリカ』『キリスト』に「所属する」に過ぎない人々を殺そうとする。

問題は「誰が」「誰を」「なぜ」のロジックなのである。
殺されたことそのものは別問題である。
銃撃で殺されたとしても、人々が憎むのは暗殺者本人ではなく
「キリスト教徒」という集団的カテゴリーそのものなのである。
戦争であってもレイプした米軍兵士ではなく
「米軍」「白人」という集団的カテゴリーそのものを「犯人」と特定するのである。
それは誰であってもよい。
米軍の背後に日本がいる、となれば日本を憎悪することもできるはずだ。

問題の根本は事件を解釈する「定義者」が握っている

人間的でいたければ、それでも人を殺したくなければ
賢くなければならない。
原因と結果を操る定義者たちにNOをつきつけ
「誰を殺すべき」なのかを自らの定義によって特定しなければならない。

そんなことを考える映画だった。

# by nngapokoatsuo | 2006-02-20 10:21

信仰
ちょっとまえに寮の人と「神を信じるか信じないか」で数時間議論しました。
でも、それからしばらくたって色々あったあとに思い返して
実は自分にも信仰ってやつがあるんじゃないかと気づいた。


「神を信じる」って言葉がイヤだったのは
僕が「神」っていうのを人間っぽい人が天にいて
その人がいうままに「従う」というイメージがあったから。


でも先日もその議論になったときにちょっと気づいた。
「神」って人でもなんでもなくて、僕が「運命」っていっていることの代替表現だってこと。
それは解釈の違いに過ぎない。

信仰をもっている人たちは物事の帰結に対して「それは神の意志だから」という。
僕は「それは結果論だ!」と主張する。


でも…「結果論」って考え方はもしかするとそうでない可能性があったってことで
人生が「自分の意志」で「選択」したものだと捉えているから。
でも僕の場合、結果に対してはそうは考えていない。
「あ~違うやりかたしとけばよかった」って後悔しないために
これはこれでよかった、「運命」だったんだって思うことにしてる。


つまり
物事の始まりには「可能性」をあてはめ
終わってしまったことには「運命」をあてはめる。
でもそれは「神の意志だから」といっている立場と何ら変わりがない。
超越的なものに自分の選択の落とし所を託している。



最近、面白いことを言ってる友人がいた。
彼は毎朝7:15からはじまる早祷に絶対に遅刻・寝坊しないで
何年間も皆勤を貫いている人なんだけど

なんでそんなことができるの?強い意志?って聞いたら

物事を続けるのに『強い意志』なんていらない。それが『自分の力で動かせる』という感覚をなくすこと。おなかがすいたり、うんこがでたりするように、それが起こったときに従うことを自明視し、すべての予定のなかにそれを組み込んでおくこと。そうすると自然と嫌な気分なんかしなくても体が動くようになる」

そう、勉強をしている時にも思うんだけど
「意志」なんてない。
むしろ馬鹿になれるほうが強い。
「従う」ことに変なプライドをもたないほうが強い。

自分の力でなんとでもなると「信じ込んでいる」うちには諦めたりやめてしまったりすることが多々ある。
だって人間は弱いものだから。

自分をそんなに買いかぶらない方がいい。
だから「神」の意志に「従って」生きるほうがご利益が大きい。

そう考えると「神を信じる」っていうことが
いままでのようにちょっと変な感じがしないで

すっと心に入ってきた。
# by nngapokoatsuo | 2006-02-17 09:37

ブログ立ち上げ
http://spaces.msn.com/temporary-employment/PersonalSpace.aspx?_c11_blogpart_blogpart=blogview&_c=blogpart&_c02_owner=1&partqs=amonth%3d2%26ayear%3d2006

こんなページなんぞ立ち上げてしまいました。

かなり真面目っこなページです。

「労働」テーマの話はそっちに外注しまっす。

ここは主に映画とか人間関係とか、趣味充実型です。

就職してからも続けられるといいなあ。
# by nngapokoatsuo | 2006-02-14 10:20

バレンタインの悲劇
http://www.asahi.com/national/update/0..









なんと



茅ヶ崎市の課長(56)がバレンタインチョコを窃盗して捕まったという哀しい事件が入ってきました。


その気持ち、わからんでもないです。


課長「あ、やべ!明日バレンタインじゃん!おれ、もらえねーよ(泣)くうッ!こうなったらいつものように…『買い』でいこう。買っちまえ!今日中に会社の机の中に忍ばせておくのだ!」


(近くのC○○Pにいそいそと出かける課長)

課長「う、うう。買おうとは思ったものの、レジが…レジが混んでる…。し、しまったー!夕方5時は主婦の時間!め、目立ちすぎた!5時に終わる会社が悪いんだ!」


そう、そのときの彼はまさしくエロ本を買おうとする中学生のごとし!勇気を出して手にとってみたはいいものの、レジが若い女性だったりレジがめちゃ混みだったりして、とーてもじゃないが恥ずかしくて並べません。

さあ、どうする!?どうする!?課長!?


あ、あ、ポケットに、入、れ、たーー!

やってしまったー!
恥をかくくらいならば法律なんてなんのその!
その気持ち!痛いほど分かるー!!

盗るは一時の恥!買うは一生の恥ー!!

しめしめとばかりに
出口に向かう課長。

がんばれ!がんばれ課長!
逃げ切れ!逃げ切るのだーーー!

ハッ!そこに近づく一つの影…

警備員「きみ…ちょっと、いまポケットに入れたもの、出してもらっていいかな?」


ひ、ひいいいい!!!
最もつかまりたくない瞬間!

かつてエロビデオを借りて帰るその足で事故にあって
病院に搬送される悲劇に遭った知り合いがいた。
病院で開いたバックからソレを取り出したオカンが一言
「え…これ何?」

それはまさに男が人生において最も孤独を求める瞬間。
そんなときの帰路は時速最高記録を超える…

だが、悲劇とはそんなときに起こるものだ…

チョコを自己調達していたことがばれた日には
1月、いや2年にも3年にもわたって侮蔑的なあだ名で呼ばれたりするものです。
もはや転校するくらいしか対策がないものです。


さあ、あなたは課長を裁けますか!?
彼が罪を犯したといえますか!?
私は日本法曹界の良心に期待します。
あなたたちにも、そんな日があったはず…
チョコを貰った男は「英雄」でした。
たとえ56歳であろうと、魔がさしてしまう…それが男というものです。


註)ずいぶん突っ走っていますが、ナカヤマが同様の経験をしているというわけではありません。新聞記事でコレを読んだとき、涙がとまらなかった…ただ…それだけです、
# by nngapokoatsuo | 2006-02-13 21:30

新居さがし
2人用で探してるんだが・・・

これがなかなか難しい。

趣向の異なる友人と探しているとこんなにも手間がかかるものかと痛感。

むこうの条件は
1.文京区であること
2.きれいさ・美しさ
3.絶対2階以上
4.間取りの広さ・リビング付き

なんだが
俺の条件が
1.安さ
2.プライバシー

なわけで。
俺がもってくる物件もってくる物件、ことごとく「否」とされる。

年間で考えると200万か250万かってときに
過ごし易さのために50万を払えるほど
清潔とかきれいさにこだわっているために

どーも俺の1の部分とひっかかってしまう。


自分が住む物件となるとどうしても「譲歩」ってのが期待しにくい。

俺は比較的条件が少ないので
いつもあちらの条件をのむという形になってくる。
すでに1も2も切り崩されてしまいかねない、という条件。


友人でさえこれならば
他人に対して利害に関わるものを売り込んだり説得することってのは非常に難しい。
こっちが譲歩したからといってむこうに譲歩を期待することはできない。

彼の場合、すでに今すんでいるところが快適であり
不満がないために、「いざとなりゃ、やめて住み続けりゃいいや」というところがある。

俺のほうが「絶対決めなきゃならない」という条件があるために
どうしても
弱い立場になってくる。

いままでは価値観の同じ友人と旅を決めたりすることが多かったので
今回のことは非常にカルチャーショックな体験となっている。

あ、そうか、こんなとこでつまずくんだな、と。

違う価値観を説得することはもはや不可能に近い。
「汚いのがイヤ!」
という人に
「汚いけど安いし広いし部屋もしっかりしてるしすごいんだよ」
といっても
その一点のみに切り崩されてしまう。

絶対にゆずれないこと

は本人にすら明らかではない。
何十件とみていくうちに徐々に彼が「あ、やっぱ汚いの絶対だめ」って
「途中から」言い始める。

自分のこだわりって自分でもわかってるわけじゃなくて
体験とともにでてくる嫌悪感から「発見」していくところがある。

「価値観が違う」ってよくいうけれど
価値観が違うこと自体、なが~く付き合っててようやく浮かび上がってくるもんなんだなと。
実際、普通に付き合ってたら価値観の違いなんてほとんど気にならない。
みんな日常的に自分の価値観なんて主張しない。

違う価値観の友人が出来る

それだけでけっこーな進歩な気がした。
# by nngapokoatsuo | 2006-02-12 17:43

伏魔殿に激怒
病院ってのは人にケンカを売っているんでしょうか。
今日は非常に腹立たしい事件がありました。

まあ就職も近いし、時間もなくなるとおもって病院に予約をいれたわけです。
「あ、すいません。コンタクトつくりたいんで、予約いれてくれますか?」
「診察番号を教えていただけますか?・・・はい、では3月1日に来てください」

・・・おい!なんでいきなり決定してんだよ!

「あ、すいません。3月はちょっといなくなるのでそれまでに見てもらえませんかね?」
「(困ったように)2月は予約が一杯なんですよ」

・・・おかしくねーか?それ。

「え、2月中のすべての日が埋まってるんですか?」
「いえ、そうではなくて。あなたの場合、角膜外来ですよね?角膜外来は水曜日なんです。それで2月の残り2回分はすべて埋まってるんですよ。」

・・・は?週1回しか診察せず、そしてそれがいっぱいだから一ヶ月待てと?いったい何様?

「あ、すいません(立腹気味に)。3月は引っ越してしまってもうこちらにはいないんです。どうにかできませんか。」
「少々お待ちください。上の者に変わります。・・・(5分経過)・・・お待たせしました。どのようなご用件でしょう?」

ちょっと初老のおばちゃんがでてくる。

「角膜外来でコンタクトを作りたいんです」
「3月1日の午前中ですね。」

おい!話つなげとけよ!

「聞いてないんですか(けっこー怒り気味)?だから3月にはもう東京にいないんです!」
「ですから2月中はもう満杯なんです。」

なんだこの会話は!

「分かりました。もう、診察はいいのでコンタクトだけは作れませんかね?」
「業者の方は診断書をもとにつくります。ですから診察しなくてはコンタクトはつくれません」

「じゃあ診断書もらえますか?」
「診断書は担当医からしか渡せないので3月1日にお越しください」

・・・(もはや怒りで言葉にならない)

「(ブチ切れ)あの、ですから、3月にはもうここにいないんですよ。」
「ですから、診断書は担当の先生からでないと出せないんですよ。」

むふー!ファック!

「じゃあ、もう違う病院にいきます(怒)それでコンタクトをつくることはできますよね?」
「いえ。あなたの場合、東大病院がかかりつけ病院ですから、眼の診断はすべて診断書がなくては受けられないことになっています。他の病院に行かれても構いませんが、つくることは難しいと思いますよ。」

(落ち着け!落ち着け!俺!)

「あの、どうにかならないんですか?」
「3月1日にお越しください」

「あの、もういいです。」


・・・病院ってやつはいったいどうなってやがるんでしょう。
患者の情報が患者自身の好きに用いることができない。
手に入れないと他の診察も受けられない。
そして診察をするには1ヶ月近く並ばなければならない。

ここはロシアかー!と叫びたくなった。

医者は確かに人を治そうという動機のもとに昼夜忙しく働いているのかもしれない。
でも実はそれって
こうやって受付ではねつけられてうまーく整頓されて並んでいる患者を順番に見ていくだけなんですねー。

そもそも自分の情報がなぜ病院に所有され
病院の都合によってしか開示することができないのか。
担当医制度ってのはまったく医者の権益を守るためのものとしか考えられないんだが。

たぶん致命的なのは電話対応だったんだと思う。
病院そのものが悪いというよりは
こうした窮状に対してもただ主張を強攻に押し付けるしかマニュアルのない
電話対応こそが諸悪の根源なのだと思う。
せめて謝るなり対策を考えてもらえれば救いになるのかと思うが

まあとにかく最悪でした。
もう東大病院はやめます。
患者だって人間です。


# by nngapokoatsuo | 2006-02-11 00:32

労働市場の将来展望
今日は新卒採用セミナー。

内定者として色々とお手伝いするために行ってまいりました。
入社動機やらなにやら150人のまえで発表させられたんですが

あとから「今後の労働市場はどうなっていくと考えますか」という質問をされた。

オイ、お前、明らかに聞く相手間違ってないか?

でもまあしどろもどろに答えたんですがせっかくなのでいままで溜め込んできた本を紹介しながら整理してみようかな、と。

で、まずは結論から。
今後の労働市場は「農奴」型から「ギルド」型に転換する

レオ・ヒューバーマンの『資本主義経済の歩み』によると
中世の農奴ってのはイメージほどにはきゅうくつなもんじゃないんですよ。
「奴隷」ってのはほんとに人権無視のとんでもないもんだったんだけど
「農奴」のほうは「土地から引き離して売られることはなかった」。

つまり住む土地や家族、生活は保障されてたんですよ。
ただ生産物から税金を天引きされていただけで。
領主と農奴との関係は、それほど「上下」というものではなく共生的な意味合いが強かった。
ただ強制は「その土地から離れてはならない」

これって戦後の会社と日本人の関係に非常に酷使している。
転勤族は居住は保証され、家族との生活もサポートされてはいるけれど

農奴と同じように「どこで」「どのように」働くかに関しては全く決定権がなかった。
いまでもそんな企業が多いけど。


一方で「ギルド」
それまで「農奴」だった人々は12世紀ごろに「都市」をつくって集住を始める。
もちろん領主は農奴が土地を離れるのなんて許さない。「働け!」ってなもんですよ。
都市はそれらをかくまったわけ。
「都市の空気は人間を自由にする」ってのは
事実上、人間を領主の搾取の天幕から逃させて、「自由」を手に入れさせた。
もちろん無償ではない。

都市で生活するには「ギルド」という「新しい領主」に貢納する必要が出てくる。
そしてギルドの商人たちは領主(当時は主に教会)から身を守るために「国家」を頼るようになる。
お金を「国家」に納めることで、「教会」という搾取者から逃れようとしたわけ。
この商人と国家の結束によって中世以降、教会権力が失墜していくことになるんだけど…

ギルドにおける労働の形は
「技術」を得るために、人々が親方のもとに弟子入りする。
そこでは「どのギルドに入るのか」という「選択」がなされるわけである。
そしてリスタートになるかもしれないが、ギルドを変更することも可能ではあったわけだ。

ギルド労働者は居住や生活の保障を「労働」に含んでいない。
それは自分で用意しなければならないものだ。
労働は純粋に「技術の伝達」という一点に絞られる。
そこでの上下関係は身分的なものよりも戦略的なものである。
より技術をもつものが「教える」側にまわり
たまたま技術の稚拙なものが「教わる」側にまわる。
この関係は固定的ではなく、柔軟なものである。


現在の労働市場においても
会社は人々を「農奴」的に扱おうとする。
しかし「人材派遣」「人材紹介」といった組織横断的なインフラが整えば
人々は「農奴」に甘んじる必要はなくなる。
自らが「選択」のうえで、ギルドとなる会社に組する、ギルド型労働者になる!

これが今後四半世紀の労働市場の展望である!


といいたかったのだが、まあ説明できるわけもなく。
ちなみに人々が都市に流れ込んだ13・14世紀ごろになると
領主たちも「不自由な労働者よりも自由な労働者のほうが『労働効率』が高い」ということに気づき始めた。

そこで固定的な「農奴」でなく「補助労働者」ってのを雇い始めた。賃金で。
彼らは身分は自分で保証し、領主の権限から「自由」である反面、「補助」という地位に甘んじるわけである。
ここらへんの動きはまさに現代の「正規労働者から派遣労働者へ」という展開にかなり近いものがある。

ではそうやって「補助」化していった労働者が自由を得た反面、何を失っていったのか。これが現在のテーマです。歴史ってのは繰り返す。「歴史は後ろ向きの預言者である」ってね。
# by nngapokoatsuo | 2006-02-08 23:14
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